でんた丸ブログ
「丸の内」の由来、歴史について
税理士法人 丸の内ビジネスコンサルティングは、丸の内にある岸本ビルの5階にあります。
今回は、「丸の内」の由来、歴史について考えてみます。
1.江戸時代
「丸の内」は、堀で囲まれた内側という意味です。東京の丸の内一帯は、江戸時代には江戸城の内堀と外堀に囲まれており、大名屋敷がありました。今でも内堀通り、外堀通りという形で内堀、外堀の名が残っています。岸本ビルがある辺りは、林大学頭(だいがくのかみ)の屋敷がありました。大学頭とは、江戸幕府の学問所である昌平坂学問所(1870年に廃止されましたが、現在は湯島聖堂として残存)の長官のことです。
2.明治時代
1867年に15代将軍徳川慶喜が大政奉還をし江戸幕府が倒れると、大名屋敷も取り払われたため、丸の内一帯は草が生える荒地と化していきました。しかし、1890年に丸の内一帯が陸軍から三菱社に払い下げられると、三菱は大規模な再開発をし、丸の内一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれるまでになりました。道路が整備され、洋風の赤レンガ建物が立ち並び、当時のロンドンの光景に似ていたからです。当時のイギリスは、産業革命を経て世界中に植民地を有する大英帝国として、世界で最も繁栄していました。
3.大正時代
1914年に赤レンガの東京駅が完成しました。第一次世界大戦(1914年~1918年)の影響で、日本は好景気となり、丸の内一帯も日本のビジネスの中心として益々発展していきました。
1923年の関東大震災の際には、警視庁や東京商工会議所(渋沢栄一が1878年に創立)が大きな被害を受ける中、皇居前広場に多くの人達が避難してきました。
4.昭和時代
1938年に第一生命館が竣工しました。第一生命館は、終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収され、マッカーサー元帥が1950年の朝鮮戦争の時に、ここから米軍の指揮をしました。
1972年からは、三菱地所株式会社と公益財団法人彫刻の森芸術文化財団(1969年に箱根で彫刻の森美術館を日本初の彫刻専門の野外美術館として開館)が主体となり、「丸の内仲通り」を中心に芸術性豊かな街づくりを目指すプロジェクトが開始しました。
5. 現在
現在の「丸の内仲通り」では、現代アート作品が定期的に入れ替わる形で展示され、冬にはイルミネーションで彩られます。